【上原かいコラム】#4_I am Wearing Freedom to be Free

ある日、強い衝動に駆られた。予測もしない事態に戸惑いながら、ただ衝き動かされるように、その世界に没入した。そこは、かつていた場所でもあった。けれども、当時埋没していた深い底無し沼とは違い、高い所から光が差し込むように感じられた。久しぶりに、とてもワクワクした。かつての世界とは違う、自由な世界だったから。今度こそ、自由を纏って、自由に生きよう。I am wearing freedom to be free.

“そうだ。靴を買わなくちゃ”突然、新しい靴が必要だと思った。“今の私の靴”古い家を手放して、新天地へと移り住んだ自分の、新しい一歩を踏み出す靴。履き古された靴ではなく、真新しい靴を履いて出かけたいと思った。それはまだ、季節の移り変わりを感じる以前の頃だった。都会を離れて、自然の中で暮らしているので、オンラインショップを覗いてみた。実際目にすることが出来なくても、画面越しから、ブランドの特性や写真で、その商品が自分にフィットするものかどうかを推察するうちに、どんどんと楽しくなっていった。その作業は、スタイリストだった私には、とても得意なことだった。どこにいても、世界中から、様々な個性のものが手に入る。今の自分の気分と、時代の気分の両方を感じながら、欲しいものを探し当てるのだ。そして、新しい服も欲しくなった。古い習慣や思考の染み込んだものではない、真っさらな新品を身に付けたい。新しく生きる私のために。過去を受け入れて、今これからを生きる、自分のための、自分だけのスタイル。誰のためでもない、誰の視線を気にするでもない、今の自分が、ただワクワクするものを身に付けて、生きていこう。自分を感じて、自由を纏って。

服で自己表現することが大好きで、スタイリングが好きで、スタイリストになった。まさに天職だと思った。洋服大好き少女は、いつしか有名になって、服は純粋に楽しむものとは違っていった。仕事のツールでもあり、生きるすべとなった服は、いつの間にかプレッシャーにさえなった。折しも、消費社会が確立されて、ファッション=流行は、その消費文化の一翼を担うようになっていた。人々は、その社会に受け入れられるために、こぞって高価なブランド服を身に付けるようになった。その先端をいくために、誰よりもお洒落でいたいという純粋な願望は、いつしか限りのない欲望へと駆り立てられていった。欲望のモンスターになって、深い底無し沼へと、うずを巻きながら取り込まれていった。すっかり疲弊した頃、人生で初めて、大切な人を失った。命の儚さを知って、生き方を変えたいと思った。そんな時に、ヨガとサーフィンに出会った。ヨガは、自分と向き合い、欲望を手放す学びを与えてくれた。海の中では、外見で判断されることはなく、波や自然と調和出来るサーファーがリスペクトされていた。初めて触れる価値観だった。ふたつの世界に魅了されて、ファッションよりも没頭していった。そして、ハワイ島へと導かれた。服好きは変わったわけではないけれど、南国という土地柄、流行とは距離を置くことが出来た。いつか、服と仲直り出来たら、と思うようにもなった。その後突然、最愛の人を失った。その喪失感は、巨大な暗闇となって私を呑み込み、もう生きる希望も欲望も無くなってしまった。服も何も、欲しいものは無くなり、無力になった。やがて時に癒されて、また生きようと立ち上がった時、新しく身に纏うものが欲しくなった。その自分が身に纏うのは、ただの服ではなくて、本物の自由だ。ただ、自分であるための。

子供の頃から、服が好きな理由は、自由になれるからだった。制服や着るもので区別される社会には反発を感じていた。けれども大人になって、自分に役割を与えて、その社会に生きる防御のために、鎧を身に着け、自らの自由を奪ってしまった。でもやっと分かった。自由という文字は、自らに由ると書く。他者に左右されることはない。社会もファッションも多様化が進み、服は、社会に対して、勝者となるためのものではなく、自分を開放して、自由になるためのものへと進化している。Feel Free, Feel myself. やっと、大好きな服と仲直り出来そうだ。自由を生きる友として。I am wearing freedom to be free.


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