名古屋と宮崎の二拠点生活。ユキナさんが手にした快適なサーフィンライフ

「生理期間を少しでも快適に、前向きに」。女性のための吸水ショーツの開発・販売を手がけるユキナさんが、宮崎県へ“サーフィン移住”を決めたのは2年前。現在は名古屋と宮崎を往復しながらサーフィンと仕事を両立させている。

「もとは仕事人間だった」という彼女が、家族と共に海沿いへ移り住んだわけとは。そのきっかけや心境の変化を聞いてみた。


デビューは28歳。仕事を辞め、サーフィン一筋に

「思い立ったら即行動する性格。若い頃は、航空券を買ってはマニアックなところばかり旅していました。社会人になると友人と休みが合わなくなるので、ほとんど一人旅でしたけど……」

そう言うと、根っからの旅好きなんです、と笑うユキナさん。そんな彼女が波乗りを始めたのは28歳。仕事続きの生活から離れ、気分転換しようと受けたサーフィンスクールがきっかけだった。

「当時はアパレル業界で販売員として働いていました。遅くまで仕事をしたあとに街へ繰り出して朝まで遊ぶ、なんてことはしょっちゅう。それはそれで張りがあって楽しかったのですが、ふと、たまには自然に癒されようと思って。レジャーの延長でサーフィンできる場所を探したんです」

電話をかけた先は、名古屋のサーフショップPIPPEN STORE。電話に出たのは、後にユキナさんの夫となる“ピッペン”こと鈴木俊介さんだった。彼の手ほどきで、ユキナさんはサーフィンにのめり込むようになる。

「厳しいけど面白い人だな、という印象でした」と懐かしそうに目を細めるユキナさん。

「ただ、その頃は“先生と生徒”という関係でしかなくて。とにかく私がサーフィンに夢中だったので、『先生、教えて!』と彼を追いかけ回していたんです」

お察しの通り、そこから2人の仲は急接近。ユキナさんはサーフィンをしながら、アスリートでもあった俊介さんの試合について回るようになった。しかし「好きだったから」といっても当時のユキナさんは時間に制約のある会社員。仕事との両立は難しかったのでは?

「サーフトリップと仕事の二重生活をしばらく続けていましたが、体力的に限界を感じたので30歳を機に退職を決めました。会社からのノルマをこなしていく日々に、サーフィン生活とのギャップを感じたことも理由のひとつ。どちらも充実していたのですが、『今、私が身を置きたいのは海だな』と思って。そのくらいサーフィンの世界にどっぷりと浸かっていたんです」

移住も、子育ても、仕事も。サーフィンに出合えて本当によかった

会社員生活に別れを告げたユキナさんは、約4年後、またもや人生における大きな選択をすることになる。地元を出て、宮崎県の海沿いに家族で移住したのだ。

「サーフトリップで訪れた宮崎にハマってしまって。南のほうに車を走らせていると、過去に旅した海外の情景が頭に浮かんだんです。ヤシの木とか、切り立った崖とか、自然の雄大さとか……。そこに懐かしさを感じている自分に気づきました」

©︎ Yuta Nakada

ただ、その時点では「旅の一部」だった宮崎の景色。それを「日常の一部」にしようと思ったきっかけがあった。

「海上がりに青島を散歩していたら、たまたまいい感じの物件を夫が見つけちゃったんです。出合った瞬間、『え、移住しちゃう?』というレベルの。夫とふたりで話し合って、PIPPEN STOREは名古屋に残したまま、宮崎に移り住むことにしました」

現在はオンラインとオフラインで子育てをしながら、PIPPEN STOREの経営をサポートしている。1か月のうち1週間を名古屋、あとの3週間を宮崎で過ごすデュアルライフだ。

ところで、それまで愛知県を出て暮らしたことがなかったというユキナさん。初めての土地で、初めての生活。不安はなかったのだろうか?

聞くと、「不安、あったのかな」とあっけらかんとした表情。

「それより新生活への期待感が大きかった気がします。『旦那さんの仕事の転勤について行ったけど、友人もいないし、やることもなくてツライ』という奥さんの話はよく聞きますが、私にはサーフィンがあったし、そういう思いをしたことはなくて。むしろ、今まで休日だけの特別なものだったサーフィンが、パッと歩いて海に行けるように、当たり前になったことが嬉しくてたまらないんです」

©︎ YO Tashiro

では、両親や友人と離れることについてはどうだろう。

「そこも特に不安要素にはならなくて。今住んでいる宮崎市は空港からの距離が近いので、帰ろうと思えばすぐに地元まで飛んでいけるんです。だから離れていても寂しさを感じたことはないし、よく家族と友人を家に招くので。逆に前より仲良くなった気もします」

こちらが拍子抜けしてしまうほど、ユキナさんは自然なようすで今の生活を語ってくれた。子育て、サーフィン、仕事と充実した生活を送るが、今はもうひとつ進めていきたいことがあるという。

吸水ショーツを事業化するときも、よきサポーターに恵まれた

「昨年〈QUARTER〉という吸水ショーツブランドを立ち上げました。きっかけは、私自身がショーツ愛用者だったこと。『1ヶ月の4分の1を占める生理期間をポジティブなものに変えることで、女性のパワーをもっともっと高めていきたい』という思いで事業化しました」

〈QUARTER〉の吸水ショーツは、機能性を備えながら、ビジュアルをもつアイテム。ブランドリリースには「過去のアパレル経験が生きた」と話すが、新しい環境で子育てをしながら起業するなんて、並大抵のことではない気がする。

「確かに大変なことばかりでしたが、夫や周りの方のサポートのおかげで製品化することができました。宮崎は移住サーファーが多くて、なかには事業で成功を収めていたり、一芸に秀でていたり、名古屋にいては出会わなかったタイプの人たちがたくさんいるんです。移住してよかったのは、そんな方々から応援やアドバイスをいただけたこと。彼らはよき友人であり、事業のサポーターでもあるんです」

今は日々忙しくも、会社員時代とは別の充実感で満たされているという。「ほとんどサーフィンのおかげ」と目を輝かせる彼女に、移住して気づいたサーフィンの魅力を教えてもらった。

「宮崎はとにかく波と景色が最高。食べ物もおいしいし、人との距離感もちょうどいいんです。そのなかでサーフィンは、性別・年齢・言語とか関係なく、みんなで同じ感覚をシェアできることが魅力。いろんなボーダーを飛び越えて、“波に乗るだけで幸せ”ってものは他にないかなって。これからも快適に、前向きに、楽しんで波乗りできたらいいなと。サーフィンに出合えて、本当によかったと思っています」

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