「みんな違ってみんな対等、それが自然」|地球の今、海の今を知るVol.41


地球上に生きる生命はすべてが例外なく、生物多様性という連環のなかで繋がり合い、それぞれが持ち味を発揮してそれぞれの役目を生きてこそ、完璧な循環と調和が保たれる。そこには無駄なものも一切なく、どんなに小さな生き物にも、どんなに無用な藻屑かと思えるビーチの海藻や貝殻にも、はらりとはがれ落ちる草木の鱗片や枯れた落ち葉にも、みんなもれなく大切な役割があり、海や大地に還ればふたたび誰かを潤す養分となるように。弱肉強食という自然界の生存競争においても、それは生命を奪うというより「与え合うことで支え合う摂理」に他ならず、奪い合いではなく「足りないところを補い合う」からこそバランスが保たれている世界──。この地球に宿るそんな自然の精妙さを知れば知るほど、今の人間社会がいかに自然から奪い過ぎているか、いかに破壊的で支配的で、いかに複雑かを感じながら、同時に自然から学べることは無限大ということもつくづく感じます。

不要なものは一つもなく、「みんなそれぞれが違った個性と役割を持ち、みんなが対等な存在」という自然の理は、なにも野生動物の世界に限ったことではなく、生物多様性の一員である人間にももちろん当てはまります。動物も植物も、それぞれに性格も生き様も、暮らしのリズムも得意分野もまるで違いますが、みんな違ってそれでいい。それなのに、たとえばイルカとクラゲを競争させて、イルカは速いから優秀で、ゆるふわクラゲは劣っている、と評価されてしまったとしたら? たしかに「動きの俊敏さ」というモノサシでは勝敗がつくかもしれないけれど、イルカのスピード感も認めつつ、イルカにはイルカの、クラゲにはクラゲだからこそのキャラクターと役割があり、両者は同じモノサシで優劣を比較するものでもありません。「魚が木に登る能力で評価されたなら、その魚は一生、自分はダメな存在だと思い込んで過ごすことになる」という名言もあるように、木登りで魚がサルに勝てるはずもなく、だからといって魚がサルより劣っているわけでもなく、そもそも魚に木登り競争をさせること自体もナンセンス。逆に、海のなかでは水を得た魚としてイキイキと個性を発揮できるように、みんなそれぞれに持ち味が違うだけ、得意・不得意が違うだけのこと。優劣をつけるものではなく、お互いの違いが「個性」として光り調和する、それこそが「自然」の姿なのだろうと思います。

人間の社会は思えば学校教育の頃から、魚とサルとで木登り競争をするかのように、限られたモノサシで成績や能力などを競い合い、自分や誰かに優劣をつける習慣も当たり前に身につく環境なのかもしれません。とくに日本では個性を抑え、社会の標準にマッチすることを強く求められ、「これしちゃダメ、こうあるべき」といった制限もたくさん抱え込み、承認欲求から自分ではない仮面をいくつも重ねてみたり。見た目や持ち物、年齢や肩書き、人気ぶりや実績、能力や効率などなど、あれもこれもが世間一般の価値基準で比較され評価され、それに一喜一憂するうちに「本当の私って、何だっけ?」と何かを見失っていたり。けれど本来は、自然の一部である私たち人間も動植物とおんなじだから、そんな無意味な優劣に振り回される必要なんてない存在。みんながもともと自分にしかない才能や可能性を持っていて、その個性を探求して発揮して、誇りにしていけばいいだけで……。もちろん動植物と人間とのあいだにも優劣はなく、どちらも対等で、そのなかで私たち人間は動植物にはない叡智をたくさん持っていて、それを活かして地球を守ることもできれば、壊すこともできる唯一の存在。どちらを生きるのかも完全に一人ひとりの自由だけれど、できることなら前者を選ぶ人たちがたくさんいる世界にいたいなと願いつつ、2022年も地球の今、海の今を書き綴っていけたらと思います。

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