
いつの頃からか海に潜っていても当たり前に、海底の砂に埋もれた空き缶や空き瓶、あまりにもバラエティに富んだプラスチックごみとすれ違い、拾っては陸に持ち帰るというルーティン。海の底で過ごした長い年月を物語るように、人工ゴミもすっかり自然と同化して。ときどき、拾おうとしたゴミの中からひょっこり顔を覗かせて、「これ、ボクのおうち!」とゴミを棲家に暮らす生き物に出会うと、ただただ「ごめんね……」としか言えなくて、彼のおうちはそっとしたまま静かにその場を立ち去る。今も昔もとめどなく海に流され続けるゴミや有害物質、彼らにとってみたら仲間たちの数もどんどん減って、そうして人間がどれだけ痛めつけても海はそのすべてを受け止め、それでも地球はなおも美しく、生命は粛々とその環を紡ぎゆく──。

HONEY Vol.33の「EARTH AWESOME」特集では、地球をさまざまな角度と距離感から見つめ、その美しさに魅せられ、同時に地球の包容力や回復力にも限界があること、今はその限界をはるかに超えていることも改めて実感しました。46億年前、最初は真っ赤なマグマの海でしかなかった、生まれたての地球。そこに何千年も大雨が降り続いて海ができ、大地は漆黒の溶岩以外に何もないところからこれほど豊かな自然環境と生命とが育まれた、それも限りなくゼロに近い奇跡の連続で……。そんな地球を巡り、荘厳な自然美と生命の愛おしさを作品に収めながらも、「自然が汚され、生き物たちが傷つく姿を目にした経験も数限りない」と語る自然写真家たち。生物学者の福岡伸一ハカセは地球の神秘とともに、人間がいかに不自然な方向に進み過ぎたのかを紐解いてくださいました。環境や動植物が急速に滅び去って、それでも社会は「地球にやさしい」を謳いながら、不都合な背景に蓋をして、まだまだ温室効果ガスや有害物質、プラスチックごみを排出し続ける商品を押し付けてくる。ふと、漫画家の手塚治虫さんが残されたエッセイ集『ガラスの地球を救え 二十一世紀の君たちへ』にあったこんな言葉を思い出しました。
「……涼しい顔で“緑は大切だ、動物を保護しよう、生命は大切にしよう”と言ってのける。そういっておいて、金儲けのためなら平気で毒物をたれ流して、殺人兵器をどんどん開発し製造していきます。
──「地球は死にかかっている」より
でも、ぼくがもっと悲しく思うのは、権力者ばかりでなく、ぼくらのような普通の市民が案外こんな状態を支えてしまっているような気がするからなのです。
ぼくらは欲望のままに物質の豊かさを求めて、わき目もふらず突っ走ってきましたが、いまがここらで立ち止まって周りを見渡す最後のチャンスではないかと思います。
これからの人類にとって、ほんとうに大切なもの、必要なものは何なのか、じっくり考えてみなければならないギリギリの地点に来てしまっています。」
このエッセイ集が発刊されたのは1989年、その当時から「最後のチャンス」と叫ばれ続けて30年以上が経った今、地球危機はさらに加速し続けている。けれど環境問題がどうこうの前に、私たちは地球のことをほとんど知らない、分かったつもりでほとんど分かっていない、「人間は目先に見えるものばかりに囚われてしまいますが、見えていない世界や小さな生命にまで思いを馳せて、彼らも含めてすべて繋がっていると考えないと、本当の自然は見えてこないんです」と福岡ハカセに教わったことは、とても大きな気づきでした。裸眼で見えないミクロな世界はもちろん、たとえば光にしても人間に見えるのは「可視光線」というほんのわずかな波長だけにすぎなくて、紫外線や赤外線、X線やガンマ線などほとんどの波長は見えていない。音だって人間が聴き取れる範囲以外の周波数や声はまるで聴こえてこない。愛する海や宇宙だって、分かっていることはほんのわずかなように、この世界は見たり聴いたりできないもののほうが遥かに多い。その真理を忘れ、たとえば自然の繋がりを切ったり貼ったり邪魔したり、動植物より人間のほうが優れていると傲慢になったり、どっちがいいとか偉いとか、綺麗だから良いとか、綺麗じゃないから悪いとか、そんな勝手な解釈で自然を見る目を歪ませているとしたら……。けれども本当は、わたしが見えているもの、聴こえている声の外側にも「ほんとうの世界」は無限に広がっているんだと気づいたとき、視野もぐわんと広がって、これまでの色眼鏡をどんどん外して、もっとまっさらな心で向き合いたい。地球を愛するってまずはそういうことかもしれないなと、私自身もその入り口に、今いちど立ち還ってみたところです。
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