自然への畏敬って、一体なんだろう?|地球の今、海の今を知るVol.42


気候変動対策の一つとして、最近は「カーボンクレジット市場」などとビジネス化までされ始めた、炭素貯留という仕組み。海でもアマモや海藻などの藻場、マングローブ林などに多く吸収・貯蔵されるCO2が「ブルーカーボン」として注目を集めていますが、「果たしてこれが本当の愛なのか?」と疑問に思うのが正直なところです。藻場を闇雲に増やせばいいという訳でもなく、植樹などでCO2排出分を帳消しにする「グリーンカーボン」も盛んではあるけれど、森林の保水量と炭素循環などには複雑な関わり合いがあり、単純に木をたくさん植えればいいという訳でもありません。そもそも自然界の絶妙な摂理を人為的にコントロールするなんて到底不可能で、必ずどこかにシワ寄せが生じるもの。それより、海も森も本来のバランスと回復力さえ蘇れば自然と復活できるのだから、手を加えるより元凶の温室効果ガス排出をなくすほうが最優先。そうでなくても、現代人の多くは木が本来持っている樹齢に敬意を払うこともなく、林業や建設業はもちろん、バイオマス燃料といった使われ方をする木質チップなどのために、儚く命を終える木々がどれほど多いことか。その木が持って生まれた何百年、何千年という命を、人間都合のためにわずか数十年で切り倒し、それを「サステイナブルだ」といって喜んでいる……そんな本質を指摘する専門家たちのほうが断然、私は深い共感を覚えます。

前回のVol.41で、動植物も人間もみんな対等で、すべての存在に大切な役割があることを考察しましたが、商業ビジネスが優先される現代は、乱獲や破壊、汚染によって生物多様性は無惨なほどに崩壊の一途を辿り今に至ります。ヴィーガンではなくとも畜産にも問題点は多く、その上に昨今はたくさんの野生動物が人里に降りてきて農作物を食べるようになり、鹿やイノシシ、熊などが「害獣」として駆除される数は、日本だけでも年間100万頭以上にまで増えているそうです。動物たちにはなんの罪もないのに、「人間にとって厄介、だから悪い害獣」と見なされる。そうして駆除された命はほとんどが廃棄処分され、一部はジビエ料理に、皮はジビエレザーとして製品化。それをサステイナブルだと謳い「善」とされるケースも見かけるけれど、本当に動物たちのことを思うならビジネスに活用するよりも、せめてそのまま母なる大地に還してあげてほしい。そしてジビエレザーを売り込むことより、なぜ野生動物の生態がそれほど異常なのか、背景で何が起こっていて原因は何か、に思いを馳せることのほうがずっと大切じゃないのかなと。人里にまで降りてくるのは、彼らが暮らしやすい山々を人間が壊して荒らして回り、気候変動で環境は悪化し、食べるものもなくなったから。そしてニホンオオカミが絶滅したことで鹿が増えたとも言われるように、こうした現象は生物多様性の危機的なバランス崩壊を物語るもの。本当は動物たちのほうが「真の被害者」なのに、彼らを悪者にして自然を冒涜するそんな姿勢こそ、いま考え直したいことだろうと思うのです。

アメリカでもかつて、害獣とされたコヨーテを大量に駆除した結果、野ネズミが大繁殖した例が知られ、そこでコヨーテがネズミたちの個体数をバランスよく保つ存在でもあると気づかされたように、すべての生命には必ずあるべき場所にあるべきバランスで存在する理由があります。Vol.21でも触れたように、サンゴを食べるオニヒトデや海藻を食べ尽くすウニが増えたとしても、農作物を食べに来る野生動物たちが増えたとしても、彼らは何も悪くない。それを人間目線で排除したり、都合よく自然を利用することをサステイナブルだと正当化するよりも、元凶になっている生産・消費のTOO MUCHをやめ、自然への「真のリスペクト、真の畏敬」とは何かを考えてみるほうがよっぽど、地球は喜んでくれるんだろうなと感じるばかりです。

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